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ラグビー日本代表の犠牲と優先順位の設定

ラグビーW杯 2019、日本は全勝で予選を勝ち抜いて、初のベスト8進出を果たしました。
残念ながら準々決勝では、前回のW杯で”スポーツ史上最大の奇跡(ブライトンの奇跡)”と呼ばれる試合の対戦相手、南アフリカに敗戦してしまいました。

あまり話題に取り上げられませんが、前回のW杯では、南アフリカに勝っただけでなく、3勝1敗でボーナスポイント2ポイント差で予選通過に届かなかったという、かなりの成績を残していたのです。
そこから4年、ドキドキしつつも、普通に格上とされる相手と戦えてるじゃん!という、全勝して確実な予選突破でした。

なにしろ、1995年W杯ではニュージーランドに、17-145という目も当てられない負け方をした頃から考えると、

試合中やテレビでの特番・雑誌などでは、「4年間の選手たちの犠牲が・・・」と表現される場面を見かけることが多々あります。

「犠牲」?
とちょっと気になりました。
W杯に至るまでのどのようなことを犠牲と呼んでいるのかは分かるのですが、この言葉を使うのが適切なのだろうか?と。

「ラグビー日本代表が犠牲を払ってきた4年間」と呼ばれることについて、考えてみました。

「犠牲」という言葉の意味を調べると、次のとおり示されています。

目的のために身命をなげうって尽くすこと。ある物事の達成のために、かけがえのないものを捧げること。また、そのもの。

大辞林

とあるテレビ番組で、スクラムハーフの田中選手から奥様へ、次のような言葉が込められた手紙が送られていました。
奥様の長年の支えに対する感謝の言葉とともに、このような言葉が綴られていました。
「命をかけて試合に挑みます。そうしなければ勝つことはできないからです。」

まさに、「身命をなげうって」挑んだ、選手の誰もがそのような気持ちで臨んだW杯だったということです。
そりゃそうです、技術面は置いておいたとしても、圧倒的な体格差、スピード差の相手と何の防具も無しに全力でぶつかり、飛び込んでいかなければならない、とにかく全身で壁になって相手を止めなければならないわけですから。

このような意味合いでの「犠牲を払って」という表現は腹落ちがするのです。
しかし、私が、「おやっ?」と思ったのは、 これとは違ったコンテキストで用いられているように感じたからです。

色々と考えてみたところ、私が腹落ちしなかったのは、「大切な家族との時間を捨てラグビーに費やして」、「ラグビー以外に使う時間が無いほど」、「W杯前までは240日間を越える合宿を行った」という点に対して、「犠牲を払って」という使い方がなされていた点に対してでした。

人によって「犠牲」という言葉のコンテキストは異なるのかもしれませんが、ともすると、「パワハラ」だと批判されることもあり得ることです。
もちろん、ラグビー日本代表においては、「パワハラ」上に成り立った練習・特訓ではなかったと思います。
しかし、表面的な結果だけを見て、表面上の選手のコメント等だけで、自己犠牲的な献身と感動や賞賛の声を上げているのを目にするたびに、私の心にはモヤモヤっとした気持ちがわき上がってくるのです。

少し話がわき道にそれてしまいましたが、「犠牲を払う」ということについては、VEの観点から考えると、何に対して時間(コスト)を費やすのかは、優先順位をどう設定するのかというだけであって、何かを得るために何かを捨てるといった取捨選択ではありません。

VEでは「対象分野の選定」というステップが設けられており、より大きな効果を得られるポイントから優先的に改善案を具体化していきます。
もちろん、全てを対象にして価値を向上させることが最善ではありますが、どのような環境にもコスト・リソースに限りがあるため、効率的に価値を向上させていくわけです。

W杯 2019において《 ベスト8入りを果たす》ことが最上位のファンクション(機能)でした。
前回のW杯以降、そのファンクションの達成に必要な手段の優先順位を最優先にして打ち込んできたわけです。

とかく日本では武士道に見られる自己犠牲的な精神をリスペクトし、そのような思考を持つ傾向にありますが、単に チームメンバー・スタッフが 「なんのため?」=「W杯2019でベスト8入りするため」という最上位のファンクションの達成に向かって”One Team”になった結果なのだと考えます。

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